【恋破香炉】


「もし」
 座り込んでいた私は、その声に顔をあげた。
 黒いヴェールで頭全体を覆い、口元だけ見える女が立っている。
 あれ? そういえばここはどこだろう?
 細長い路地には自分以外には誰もおらず、目の前には古びた駄菓子屋が一軒だけ。
 浅黒い肌の女は「もし」ともう一度店内から尋ねてきた。まるで店から出ることが許されないように。
「ようこそ、喜怒哀楽屋へ」
 柔らかく、女は微笑んだ。



 気づけばもう29歳で、30歳までのカウントダウンが始まっていた。
 自分なりに精一杯働いて、でも貯金なんてそうなくて、恋した相手が妻子持ちなんて……どこのバカな設定なのって笑いが出た。
 液晶画面越しにドラマを観れば、綺麗な女優さんたちが「年齢なんて関係ない」なんて言ってる。
 うそばっかり。
 年齢は、どうやったって出るわ。あなたたちは、そういうお仕事だから誰よりもお金をかけられる。
 もうすぐ30歳。まだ若いって言われるけど本当にそう?
 怖くて、先がみえないのよ。
「粗茶ですが、どうぞ」
 出された湯のみに、私は我に返る。
 そういえばここはお店の中だった。
 まるで占い師みたいな出で立ちの、全身を黒のローブで覆っている女性はどう見ても美人……の感じがする。
 細く唇に引かれた紫の口紅がすごく印象的。
「このお店に用があるということは、あなたには商品を買うだけの代価を持っていらっしゃるということ。
 この説明、他のお店ではしませんが、うちではするようにしているんです」
 微笑みながら、彼女はこちらと距離をとる。
「他のお店……?」
「喜怒哀楽屋は、他に3店舗ほどありまして、扱っている商品も、店主も様々。
 みな風変わりな者でして、わたくしもその一人ですわ」
 たおやかに言う彼女の背後……店内には駄菓子屋を改造して作られた雑貨屋としか思えない室内が見えた。
 ただ、置いてあるものはこの女性が持っていても不思議ではないものばかり。エキゾチックな様子のものばかりだった。
「何か気になる商品がございましたらどうぞ。あなたのお役に立つことでしょう」
 小さな丸椅子に腰掛けたまま、私は店内を見回す。
 目についたのは、凝った模様の香炉だった。なんだか高そうだし、どうやって使えばいいのかわからない。
「あの香炉はおいくらですか……?」
「あら? あちらの?」
 女性はそう言ってさっと棚から香炉を持って来た。
 目の前に差し出されると、喉から手が出るほど欲しくなってくるから余計に不思議。
 淡い紫色にも見える銀の香炉。何かアロマにでも使えるかしら……?
「ふふっ。なるほど」
 店主は意味ありげに微笑み、香炉を渡してこようとした手を引っ込めた。
「お代はあなたの『思い出』ですわ」
「思い出……?」
「ええ。とは言っても、そうですわねぇ……うちはどちらかというと、お客様には満足をいただいていますの。
 その思い出とは――――」



 クラクションの音で、ハッと身を引いた。目の前を一台の車が乱暴に通り過ぎていく。
 今のは白昼夢? なにやってるのよ、私。
 舌打ちしたい気分で手の中を見ると、あのお店でもらった香炉がそこにあった。
 夢じゃない……!
 呆然とする私は、店主に言われたことを思い出そうとした。
 この香炉の使い道。使い方。
 私は頼りない気分で、肩からかけていたバッグに香炉を大事におさめた。
 なんの思い出を代価に出したか忘れてしまったけど、きっと今の私にはこの香炉が必要だったのだ。



 会社に出勤すると、そこはいつもと同じだった。けれどもなんだろう……この胸の空虚な感じは。
(もしかして、あのお店に出した思い出が……?)
 あんな摩訶不思議な目に遭ったっていうのに、私はちっとも不思議に思ってない。
 起こるべくして起こったようにしか感じなかった。
 そう、確か今日は珍しく早起きして、いつもとは違う道を通ったのだ。そして、あの通りへ出た。
 奇妙なほどそこは静かで、真っ白で、太陽がやけに照り付けていた。照り付けすぎて、周囲が白く見えてしまったのだ。
 昭和の次代に紛れ込んだような古びた駄菓子屋が目に入った。通りに並ぶ家も、それほど新しいものじゃない。
 けれどもあのお店以外は、平成の時代のもので、それがまたアンバランスで気持ち悪かったのだ。
 目眩がして座り込んだ時に私はあの店主に声をかけられた。
 店の名前は「喜怒哀楽屋」。変わっている名だと思う。
 店は「思い出」と引き換えに商品を売るけれど、店舗によっては扱う品と、思い出が違うと彼女は説明した。
「一番良心的なのはここですわよ」
 と、一言つけ加えていたが、他の店を知りようもないので私には比べられない。
 香炉はまず、肌身離さず持っていなくても構わないこと。使うべき時がきたら、香炉が自然に教えてくれると奇妙なことも言われた。
「この日本ではつくもがみ、というものがあるのでしょう? わたくしにはよくわからないのですけど。
 ほら、どんなものにも、年月が経つと意志が宿るという」
 彼女は日本の風土に詳しくないらしく、私がOLだと言っても首を微かに傾げただけだった。
「じゃあこの香炉にも意志があるってこと?」
「いいえ、物に意志はありませんわ。あるのは、使うあなたたち人間の意志だけ」
 微笑む彼女が出してくれたお茶は不思議な香りと味がして、日本のものじゃないとだけわかった。
 カウンターに戻った彼女も、私と同じお茶を飲み始めた。ティーカップじゃないのが不思議なくらい。
 表情にそう出ていたのか、彼女は微笑む。
「他の店舗の店主からいただいたの。ユノミ、というそうですわね。かわいらしくて、気に入っております」
「はぁ……」
「取引する『思い出』なのですけど、本当によろしいのですか?」
 再度尋ねてきた彼女に私は頷く。一度決めたのだ。もう振り返らない。
「一度渡した『思い出』は、もう取り戻せませんけれど……。ここにいらっしゃるお客様はみな潔くて困りますわね」
 怪しく微笑む彼女は怪訝そうな私の視線に「いえ」と囁く。
「本来わたくしが好むのはそのような種類の『思い出』ではないのです。
 けれどもこの場所が、この店が望むものを選ぶ。選ばれたのがあなた……仕方のないことですわ」
 風変わりな店主だった。ヴェールで表情こそ見えなかったが、彼女は盲目だったのはちらりとうかがえた。
 常に瞼を閉じたまま動いていたが、慣れた店内なので見ずともわかるのだろう。
 給湯室でお茶を淹れていた時、こっそりとやってきた同期のかず子がやって来た。
「ねえねえ英理子。佐上部長のこと、本当にいいの?」
 佐上? ああ……そういえばこの子、知っていたっけ。
「いいの。べつにもう」
 別れを切り出された時は悲しくてたまらなかったけど、今はどうでもいい。
「でもさぁ……あんだけあんたに入れ込んでたのに……だって5年以上だよ?」
 だからなによ。
 あんたに何か言われるのが、すごく嫌なの。辛いの。
 その憐れみの目をやめて。私が何したっていうのよ。あんたに迷惑かけてないじゃない。
「ひどいよね。だって、結局英理子のこと遊んでポイってこと、じゃん……?」
 控え目に言えばそれでいいってこと? ふざけないでよ。触れられたくないことだってあるじゃない。空気読みなさいよ。
 かたん、と音がした。
 振り返った流し台の上に香炉がある。
 ふわりと流れてくる香りに、私は涙が零れた。
「え、英理子!?」
「……う……くっ」
 たまらない。悔しくてたまらない。好きだったのはこっちだけ。愛情なんて薄っぺらなもの。
 そうだ。私はあの人が好きだった。だから売ったのだ。あの『思い出』を。
 一番切ないあの、思い出を。
「ご、ごめん! マジで空気読めないからさぁ。泣き止んでよぅ」
「かず子のせいじゃ……なくて……。タイミングよすぎて……」
 本当は、我慢なんてせずにただ泣きたかったのだ。そう。楽になりたかった。
 背中を摩ってくれるかず子が、苦笑した。
「高校の時は、あんた泣かずに我慢してたのにね」
 そう、私が売った思い出とは――――。



 水晶に浮かぶ英理子の姿にサリールは小さく微笑む。
「初恋の思い出、とは肝がすわった娘さんですこと。そう思いません? ナータ」
 呼ばれたのは店内の隅で、まるで彫像のようにじっとしていた白いフクロウだ。
「ここに来る客はみな、乗り越えようとしている者ばかりだからな」
「そうですわね。今は暗闇で見えなくても、きっとまた彼女に灯りが……。
 ふふ。いただいた『思い出』は本当に悲哀で満ちていて辛さしかありませんわね」
 小箱に入れられた『思い出』に手をかざし、サリールは呟く。
「まあ、彼氏は彼女を都合のいいように使っていたのね。見た目がいいからって、散々人形みたいに連れ歩いてみせびらかして。
 ひどい男ね」
「こらしめるのはおまえの仕事ではないぞ」
「わかっておりますし、こんなクズのような男に興味はありませんわ。
 彼女は思いを、過去を断ち切って前に進むことを選んだのですもの」
 ですから。
「幸あれ――と、わたくしが言うのもおかしいですけれどね」
 人間、素直が一番ですわ。

 店の前の通りに、また誰かがいる。不思議そうにこちらを覗きこんでいるのでサリールは立ち上がって入り口まで歩いた。
「いらっしゃいませ、お客様。ようこそ、喜怒哀楽屋へ」