「うえー! 逃げられたー!」
 由希が悲鳴じみた声をあげた刹那、イシュパの身体がぐらりと傾いた。
「ひょえー! イシュパ殿!」
 支えるモンテに、イシュパは弱々しい笑みを浮かべた。吐血……している。鼻血もだ。
「ちょっと無理をしすぎたみたいです……」
「ちょ、やっぱり病弱キャラじゃんー!」
 思わずツッコミを入れる由希は、何に驚いていいのか、どうしていいのかわからず混乱中だった。人間、一度に色々なことがあると混乱に陥ってしまうものだ。
(美和姉連れて行かれちまった! どうすりゃいいんだ!)
 ふらふらと歩き出すイシュパはごほごほと咳をする。掌でおさえたが、そこからだらりと血が流れていた。
「ああ、殿下に怒られる……。まずいことになりました……。
 とりあえず」
「とりあえず?」
 由希とモンテの声がハモる。
 こほんと一つ咳をして、イシュパは儚い笑みを浮かべた。なんだかいつ死んでもおかしくないくらい、かげが薄い。
「殿下のところに戻ります」
「殿下?」
 同じ言葉でも、含まれた意味合いが違った。
 由希は純粋に「誰? あ、第二王子?」と思ったが、モンテは真っ青になって「いやだー!」と内心叫んでいた。
「ちょちょちょ! イシュパ殿! フレイド王子に叱られるのではないのですか???」
 必死に引き止めるモンテはくわっ、とつぶらな瞳を大きく見開いている。血走っているように見えるのは気のせいだろうか?
「叱られるというより、足蹴にされますね……」
 ぼんやりと遠くを見つめながら応えるイシュパはそれでも帰還するために召喚陣を描いている。どうやらアシャーテとは得意ジャンル違うようだ。魔道士にも色々いるということだろう。
「暴力を受けに帰るのですか、あなたは!」
「いえ、こちらの失態だから当然じゃないかと。あはは」
 空笑いのイシュパは、掌を擦り合わせ、呪文を呟く。刹那、周囲の光景がぐにゃりと歪んで一瞬で移動した。
 見覚えのない室内に由希とモンテは唖然としてしまう。
「殿下、殿下ー、戻りましたよー」
 気軽にそう言ったイシュパは、寝室となっている続きの部屋から足音が聞こえてくるのに気づいてそちらに駆け寄った。
 も、もしかして第二王子の部屋……?
 モンテが口をぱくぱくと動かし、由希もさすがに青くなってしまう。
 さっきまで別の魔道士とバトルをしていたというのに次の危機が迫っていた。
 第七王子の暗殺未遂。第五王子を暗殺した王子のご登場というわけだ。
(う、嘘だろ。なにこの展開)
 いきなりすぎる!
 バタン! とドアが開き、いきなり長身のイシュパの頭がぐわしっ、と掴まれた。
(ヒィー!)
 心の中で悲鳴をあげる由希は硬直し、光景を見守るしかない。
 続き部屋から現れたのは、第一、第七王子とはまた違った趣の美青年だった。野生的と言ってもいい。頬に一筋傷が走り、やや筋肉質の肉体をしている。
 しなやかな豹のようだ、と思わせる青年は、短くした髪の持ち主で、片目を眼帯で覆っていた。
 海賊の船長ですか? と思わせる出で立ちだが、間違いなく王子様なのだろう。
「なにをのん気に声をかけている、イシュ」
「申し訳ありません。失敗したものでー」
 頭を鷲づかみにされたまま、イシュパはそう言い、ぶんっ、と思い切り床に投げられた。どひー! な光景である。まさに家庭内暴力ならぬ、王宮内主従暴力の現場であった。
 どっしゃああ、とすごい音をたてて床の上を滑ったイシュパはごほごほと咳をする。また吐血している……。よくこれで死なないものである。
「イシュ、俺はティアズゲームに勝った女を連れて来いと命じたはずだが?」
「はっ。そ、そうですが、失敗したもので」
「相手は誰だ」
「アシャーテです」
 さらりと言いながら、何もなかったようにイシュパが立ち上がった。たらりと鼻血が出ているが、彼も、彼の主も気にした様子はなかった。
 フレイドはずんずんと歩き、腕組みした。
「エルイスが相手か……。小賢しい……」
 渋い表情がよく似合う王子だ。……というか、怖い。
 由希はぎぎぎ、と音がしそうな動きでモンテのほうを見た。モンテはもう失神寸前のようで、白目をむきかけていた。
(おいぃ! 気絶するな! 俺を残してひとりで楽になるな!)
 こっちの世界では、知識はあっても由希はただの一般人だ。特異体質の亜矢や、特殊な美和よりも平凡なのである。
 室内を行ったりきたりしているフレイドは、ふと由希とモンテの存在に気づいて目を細める。ド迫力であった。
「誰だ、こいつらは?」
「おや? 憶えておられないのですか? ナギル王子のお付きの魔道士と、殿下がご所望の娘のご姉弟です」
 きょうだい、と発音されたが間違いなく女に思われているだろう。
「なるほど。ナギルの婚約者とかいう女か」
「いいえ、弟君ですよ?」
「………………は?」
 また目を細められた。あまりの怖さにモンテが気絶して転倒した。
(わああ! こいつ本当に気絶した!)
 残された由希は口元を引きつらせながらなんとか堪える。
 フレイドは由希に近づき、まじまじと眺めてきた。
「どう見ても女にしか見えんが……」
「魔術でも使っているのでしょう。あちらの世界の」
「なるほど」
 納得しちゃったよオイ! と、ツッコミを心の中で入れる。
「異人は腹が立つ」
(いきなりそんなこと言われたって!)
 ナギルは見た目も肌が浅黒く、確かにこの国の人間とはどこか違っていた。敵対理由もそんなものなのだろう。
 なんとでもないようなことでも、本人たちにとっては大きな問題になることだってある。
(なるほどね〜……第二王子様は異人が嫌いなのか)
 亜人種であるモンテが震え上がっていた理由もわかった。
 いかにも王子様タイプの第一王子。まるで軍人のようなタイプの第二王子。ミステリアスな第三王子。異国風の第七王子。多種多様な王子がここまで揃っているといっそ清々しい。
 ずいっと近づかれて由希は退きかけた。いや、身構えた。
 合気道をしていたとはいえ、由希は美和よりも腕が下だ。戦えるとは思えない。対等に遣り合えるとも、思わない。
(ナギルが『逃げた』相手だ……俺じゃ、相手にもならない……!)
 亜矢の姿が脳裏に過ぎる。姉の不運体質が伝染したのではないのかと、己を疑ってしまうほどに。